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5分で隨心院に到着です。この隨心院は遅咲きの唐棣(はねず)の梅で有名なお寺で、毎年3月の最終日曜日には観梅と地元の少女らが舞う「はねず踊り」を観に多くの人で賑わいます。ところで、この「はねず踊り」で歌われる深草少将の話は、上に書いたのと随分結末が違っています。
少将は九十九日目、雪がひどいのを理由に代人をたてます。ところが小町に代人を立てたことがバレてしまい、少将は振られてしまいます。
いや少々(少将)興ざめですね。
隨心院は正暦2年(991)年、仁海僧正が建立した曼荼羅寺に始まる真言宗のお寺で、本尊の如意輪観音や快慶作の金剛薩捶坐像などをゆっくり拝観する事ができました。小野小町ゆかりの史跡も多く、化粧の時に使った井戸
化粧井戸 や多くの貴公子から送られたラブレターを埋めた
文塚 そして、老年の小町の姿を彫ったという
卒塔婆小町像 など、興味深く見学しました。それにしても、なぜあの卒塔婆小町像のような老衰像を作ったのでしょうか? 昔の人は小野小町をどういう風に捉えていたのでしょうか? |
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隨心院を後に10分ほど西へ行くと勧修寺です。勧修寺は醍醐天皇が母の藤原胤子(いんし)の菩提を弔うために昌泰3(900)年に母方の実家である宮道弥益(みやじいやます)宅に建立したので始まりで、ここには狩場のロマンスとして、以下の様な話が伝えられてます。
藤原冬嗣の孫で藤原高藤(たかふじ)が山科の地に鷹狩に来て雨宿りに泊まったのが、土地の郡司である宮道弥益の屋敷でした。ここで、高藤は弥益の娘の列子(たまこ)と一夜の契りを結びます。6年後、再びこの地を訪れた高藤は、列子との間に可愛い女の子(胤子)が出来ていた事を知り、列子を嫁に迎えます。胤子は後に宇多天皇に嫁ぎ、醍醐天皇を生んだのでした。
日本版シンデレラ。寺では「玉の輿(こし)に乗る」という言葉もここから出たと伝えてます。“えぇ……一寸待って下さい。玉の輿の話って、西陣の八百屋の娘の「お玉」さんが、徳川三代将軍家光の側室になり、五代将軍綱吉の生母になった話の事じゃなかったのですか?” この山科の地にも玉の輿伝説が有ったのですね。でも何となく「お玉」さんの方が、玉の輿という感じに合う様な気がしませんか? 先日、北野天満宮の近くの立本寺に行った際、幽霊子育飴が売られているのにビックリしました。玉の輿伝説と同じ様に「幽霊子育飴」の話も複数箇所に有るそうです。先入観や固定観念って意外と心の中にしっかりと根を張っている様ですね。また、紫式部は藤原高藤の玄孫(げんそん:ひ孫の子)にあたり、源氏物語ゆかりの地でもあります。紫式部は列子の事をヒントにして、明石の君の話を書いたとも言われてます。 |
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| 勧修寺は花の寺として有名です。庭園は氷室池(ひむろいけ)を中心にした池泉舟遊式庭園で梅、桜、杜若、睡蓮、蓮など四季の花に彩られ、平安時代の趣を今に伝えております。今日は睡蓮は今ひとつでしたが、菖蒲が咲き誇ってました。皆さんゆっくりと庭園の美しさを堪能されてました。 |
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勧修寺から岩屋寺へは、ちょっと長い行程で黙々と歩きます。忠臣蔵の大石内蔵助が、討ち入りの前一年余りを暮らしたのが、岩屋寺が建つこの地です。本堂の下段境内に結構広い隠棲宅跡が有りました。堂内には四十七士の位牌と木像が祀られており、又内蔵助の遺品や浅野内匠頭の肖像画も置かれてます。
風さそふ 花よりもなほ
我はまた 春の名残を いかにとやせん
辞世 浅野長矩
“じぃーん”ときます。案内をして下さった女性の方の説明は大変おもしろく楽しい時間でした。この後、大石神社に立ち寄り、最後は平安時代の武将で征夷大将軍になった坂上田村麻呂の墓を見て椥辻駅で解散となりました。今日廻ったお寺は、どこも伝説や縁起、由緒などに多くの話が有り、花や庭園の美しさと相まって、京都を学ぶ楽しさを、改めて感じた次第です。
それにしても今回も結構歩きました。らくたびさん、参加者の皆さん、お疲れ様でした。
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